8月例会【久保田委員長卓話】
【参加者】
「ロータリアン」
藤田千克由
玉田龍一郎
河村岳彦
久保田哲
蜷川重忠
藤澤卓弘
岡村申弥
「ローターアクト会員」
志津里亮介
堤崚次
阿部真典
向井蓮
高野航志
小河悠加
三浦幸治
「ゲスト」
高橋淳也
姫野未歩
武石達也
杉木拓未
増田真喜
【会長の時間】
ローターアクトとは若いグローバルリーダーのネットワーク。
ローターアクトクラブは18歳以上の人々が集まり、地域社会のリーダーと 意見交換したり、リーダーシップと専門的なスキルを育みながら、楽しく奉仕活動を行っております。
ロータリーとローターアクトの会員は世界各地で、奉仕を通じ共に行動をしています。大都市から僻村まで、ローターアクトは、様々な地域社会での変化をもたらす、団体です。
【アクトの歴史】
世界中の青少年が共に活動できるような組織を作ろうと1962年国際ロータリーにより インターアクトプログラムが採択されましたが、インターアクトは14~18歳迄の高校生の 年齢が対象で卒業と同時に会員資格が失効してしまう為、これを継続するプログラム として、1968年当時の国際ロータリー会長のルーサー・H・ホッジスにより ローターアクト構想が打ち出され、その年理事会でロータリーの公式プログラムとして 承認されました。最初に承認されたクラブは同年3月13日アメリカ・ノースカロライナ州 のノースシャーロットRC提唱によるノースシャーロットローターアクトクラブでした。 日本最初のローターアクトクラブは、1968年6月1日川越RC提唱の埼玉県の 国際商科大学ローターアクトクラブ(現:川越ローターアクトクラブ)がはじまりです。 この様な歴史の中で、ローターアクトは18歳からと、学生もいれば社会人も所属できる 幅広い年齢層からの構成となり、様々の立場からの個性、視点からの活動ができる団体である ことが他の青少年奉仕プログラムと比べての特徴の1つとして挙げられます。
【地区行事について】
新人研修会・アクトの日(熊本阿蘇)
9月7日・8日
各ローターアクトクラブ次年度三役(会長、幹事、会計)および新人会員がそれぞれの分野でクラブ運営を学んだり
次年度の活動方針を発表する研修会
アクトの日
動物保護団体と共同し動物支援を行う活動
第40回年次大会(八代)
10月5日・6日
地区年次大会は、ロータリー、ローターアクトに関する情報交換が行われる場であるとともに、親睦の場ともなります。 ・1年間の活動報告・地区の奉仕プログラムやプロジェクトの紹介・ローターアクターの奉仕への意識の更なる高揚・クラブレベルを超えたビジョンの共有・思い出に残る親睦の時間を楽しむ・リーダーと交わる機会の提供です。
【卓話】
久保田委員長の生い立ち、人生の話をしていただきました。
私はよくセミナーをします。ですがwebのことを話しても理解できないと思いますので今日は自己紹介を30分させていただきます。
大人になると若手にしてはいけない三つの掟というものがあります。
・説教
・自慢話
・昔話
この三つだけはしないようにと普段から言っております。
よく目上の方からこういう経験あると思います。
そのうちの自己紹介というものも昔話にはなるんですが、私が生きてきて56年この56年間どのように生きてきたか、この昔話を20代30代がしても昔が最近すぎて面白くないと思います。50歳くらいになると昔話が面白くなっていきます。
56歳でロックスカンパニーという会社をやっています。
7つの好きなものがあります。
・音楽好き
・バンド好き
・相撲好き
・将棋好き
・ゴルフ好き
・ワンチャン好き
・プロレス好き
・家も会社も都町
ということで10歳に遡ります。
1978年、みなさん生まれてないですね。
実は10歳の時にビートルズとアリス、この二つのキーワードがあってここにピントが合ってしまった。ピントが合ったというのは世の中に共通して知れわたっているこのキーワードがなぜか私にはピンポイントで見えた。
このビートルズとアリスに10歳で出会ってしまったことにより自分の人生が狂ってしまった。
中学を進学すると15歳で高校受験があると思います。
1983年高校進学の際、私は先生に進路を相談しました。
私は中学3年間ミュージシャンになると思って過ごしてました。
どうやったらミュージシャンになれるのか。ずっと考えていました。
今みたいにインターネットはないです。音楽雑誌があって、近くにミュージシャンがいれば聞けたと思いますが、、、そういう大人もいなかった。
当時は先生に聞くしかなかった。
中学3年生のとき、俺は高校に行かないと、電車に乗って東京に行くんだと進路指導の時に先生に相談したところ、先生は驚かれました。
ですが先生はアルバイトもするかも知れない就職するかも知れないから高校だけは行きなさいと説得され、行きますと言います。
高専を勧められ受けました。機械科に興味はなく倍率も4倍。その受験は落ちました。そうすると先生に「お前の頭で行ける高校はここだ」と紹介されたのが大分工業高校でした。機械には興味がないが、とりあえず高校にいっとくかと入る。
アルバイト禁止だったが、ミュージシャンになりたいからお金が必要だった。
新聞配達をしていたが限界があった。しょうがなくとりあえずバイトをしようと。当時16歳でできるバイトが限られていて、その中でいいと思ったのがマクドナルドだった。
そこに面接へ行き受かった。
マクドナルドでは芸短の先輩が北九州の田村あつやさん(師匠)を紹介してくれた。月一回大分にレッスンをしていたのでそこに会いにいった。
卒業したら北九州に来なさいと言われた。
マクドナルドである学びがありました。
アルバイト120名、社員3名でピラミッドがしっかり形成されており、働き手がやる気を出すための仕組みがしっかりできていた。
22歳のとき本格的にミュージシャンになるため、東京に言って代々木のスタジオに入り浸るようになった。その時出会った方がいた。当時北九州といったりきたりしていたので東京に住もうと実家の大分に帰ってきて親に東京行くからと伝えた。その時川北さんという方を紹介してもらった。このかたはOTISをやられている当時社長。
そのかたに東京に行って何があるのかと言われた。音楽の土俵はニューヨークにあると言われた。
そこで22歳衝撃を喰らった。
それから川北さんに弟子入りをし、入社した。
このようなきっかけ学びが今の仕事につながっている。